【そこにある山(角幡唯介)】“思いつき” は自分そのもの
『そこにある山 結婚と冒険について(角幡唯介)』の帯にこう書いてある。
何故結婚したのですか? 一つの<愚問>が切り拓いた永遠にして最大の、謎「人はなぜ冒険するのか」
角幡唯介氏は人の内面を自身の行動や経験から紐解き言語化していくのがうまく、読んでいて「そうそう。おれもそう思ってた」と思わされることが多い。むしろそれどころか「最初から知ってたよ。読む前から知ってたさ」と思うことさえある。しかし言語化ができてなかったどころか、その感覚を自身の内面から発掘さえできてなかったことを本当は知っている。
要するにどういうことかというと、読んでいて悔しくなるのだ。
自分は過去の自分でできている
誰かに頼まれて書いている書評ではないので、いちいち本の内容については書かないことにする。——というか先述の帯が的確に内容を指しているので、あとは読んでほしい。
ともかく、この本を通じて突きつけられているのは、今の自分が過去の自分によって築き上げられているという事実だ。そういうことを本の中では角幡唯介氏の例を挙げて語られているが、ここでは自分を題材にして考えてみる。
たとえば「狩猟をやる理由は?」と問われることがたびたびある。分かりやすい話として、ぼくはよく「関東に住んでいたとき、たまたまイノシシを見て、獲って喰ったらうまそうだと思ったから」というエピソードを挙げてきた。多くの人はこれで納得してくれるが、よく考えれば、イノシシを見たからといって「獲りたい」と思う人はかなり稀だろう。
ぼくがそう思うようになった背景がもちろんある。いくつもある——
まず1つは父が鉄砲撃ちだったこと。鳥撃ち専門だったが、少なくとも鉄砲が家にあるのは当たり前の幼少期を過ごしてきた。だから少なくとも「一般人が猟銃を持つことができる」という実感があった。
そして山が好きで下手ながらも釣りやら山菜狩りなんかで山に行くのが好きだった。ほかにも趣味は多かったが、実はウィンタースポーツはからっきしで、冬のアクティビティをなんとなく探していた。
そして(これが重要なのだけど)、妻と2人で海外を2年4ヶ月かけて旅をした経験から、ひとつの大事な感覚を得ていた。それは「遠くに行って楽しむ側から、その土地を楽しむ側に回りたい」という感情の転換だった。20代の頃はとにかく遠くに行きたかった。最初はバイクで1泊2泊と旅をしていたが、いつのまにか9泊10泊と伸び、しまいには会社を辞めて2年以上旅をすることになる。その反動なのか、旅の最後の方は「土地に根差し、土地を楽しむ人になりたい」と思うようになった。“狩猟” という言葉を頭に思い浮かべたとき、この「土地を楽しむ」という欲求とピタリと繋がった。
つまり「イノシシを見たから狩猟を始めた」というのは事実ではあれど、あくまで表面的なこと。この1つの事実を支える複数の過去の経験や知見がある。そして言うまでもなく、それらの経験も、さらに過去の知見から支えられている。
幼い頃、父は昼間からカーテンを閉め切り、鉄砲を出してきて、油を塗っていた。不自然に薄暗い部屋にオイルの臭いが充満していた。そこに強烈な大人の匂いを感じていた。あの光景も、いまぼくが狩猟をやっている理由を支える経験の1つである。
「イノシシを見かける」というシンプルな体験と、過去の自分が積み重ねてきた経験とが化学反応を起こし「自分で獲ろう」と思ったわけだ。
“事態”
角幡唯介氏は結婚のことを “事態” と呼ぶ。
かいつまんで言えば「結婚は自由意志なんかではなく、過去から積み重ねてきて、避けられなくなった事態である」という理解でいいと思う。これは冒険にも言える。角幡唯介氏は冒険家となり、いろいろやる中で、ある冒険が引き金となり次の冒険を思いつく、ということを繰り返し、いまは犬橇・狩猟・漂泊などが主となるキーワードを成している。
この思い付きについて、情熱を持って書かれている。
<裸の大地>探検という、この冒険の思いつきには私の全過去の歩みが込められている。この思いつきは、誕生以来、延々とひとつらなりに語ることのできる私という人間の物語の、最新バージョンだ。最新バージョンというのは、私の過去の履歴から生じたその最先端という意味である。
(中略)
この思いつきには私という人間の現時点におけるすべてが乗りうつっている。(中略)この思いつきは私という人間そのものだ。
『そこにある山』
この「思いつき」を否定してしまったら、過去の自分から繋がる「今の自分」を否定することになる。だから思いついてしまったからにはやらねばならない。という結論になる。それこそ冒険をする理由である、ということだろう。
やや思い詰めているくらいの熱い「思いつき」への情熱が、ぼくには刺さった。
角幡唯介氏の取り組んでいる冒険のような「世界でもやったことがない」というほどのスケールではないにせよ、ひとは「あ、これやったらおもしろいんじゃない?」という思いつきはあるものだ。ぼくにだってある。
ここ2年、ぼくはクマを獲りたいとあれこれ取り組んでいる。最初からそう思っていたわけではない。なにしろ最初はイノシシを獲りたいと思って始めた狩猟だった。そしてイノシシ猟に取り組んでいるうちに、ぼくの家業である宿泊業の方で動きがあり、北海道に移住することになり、必然、狩猟の地が北海道に移った。エゾシカ猟に励んできたが、日帰りで取り組む狩猟に物足りなさを感じ、泊まり込んで取り組みたい獲物として、ヒグマを思い浮かべるようになり、「ヒグマを追って山を何日も歩き回る」という絵面が浮かぶようになった。
いま「ヒグマを追って2週間式の狩猟」という野望があり、やらねばならないという情熱を持っている。
これがなにも「自分のしかできない偉業」だと言いたいわけではない。でも、やりたいと思いついてしまった以上、その思いつきは「私という人間そのものだ」と鼓舞されてしまったわけで、ぼくはこの本を読んで「よし、ぼくもがんばろう」とどうしようもないくらいシンプルな感想を抱くのだった。
また、おもしろいと思ったらこちらをクリックしていただけると、ランキングが上がります。応援のつもりでお願いします。
ブログ村へ