猟場の下見と深い藪、そして諦めたら終わりだということ
10月1日から猟期に入る。その準備も兼ねて、時間を見つけては山に行くようにしている。
山に行くと発見が多い。だけど何を発見するかは本人次第だ。ぼんやりと歩けば何も見つからず、知識があれば1本の木からでも多くのことを学ぶ。自分を制限するものは自分だ。
林道はやがて消えて
とある林道を歩くことにした。
人の入った気配の少ない林道である。車の轍もあるにはあるが古そうだ。その理由はすぐにわかることになる。
北海道の山の中。ヒグマの出る山域である。万にひとつも遭遇したくないため、声を出したり歌ったりしながら歩く。鈴を付けて歩くと、延々と鈴が鳴り響き、かえってヒグマの気配を察しにくいだろうと考えている。むしろ手を叩いたり、ホッホッ! と声をあげる方が好きだ。これなら耳を澄ませたり、声を出したり、自由自在にコントロールできる。
林道を歩き始めてすぐはまだ遠くに車が通る音がするため、ホッホッ! という声も自信なさげで形ばっかりの頼りない声量にしかならないのだが、車の音が聞こえないくらい奥に入ってくると自然と声に張りが出てくる。怖いのだ。
そんな風に盛大に人間の気配を漂わせながら歩いていても、シカはちゃんと姿を現す。
実際の猟では林道から撃つことも、林道の獲物を撃つことも違法なので、これらは「撃てないシカ」だ。彼らが林道を降りた途端に「撃てるシカ」に変わる。もちろんその場合もこちらが林道を降りる必要がある。
写真を見てもらえば分かるように、林道脇の笹藪が凄い。
決してシカが小さいのではない。人間の背丈よりも高い笹藪が張り出していて、まさに林道を挟む壁のような有り様だ。
そして林道は徐々に狭まっていく。途中からは「これ、車で入れるのかな?」と思うほど狭くなり、最後にはこうなった。
これはあくまで林道の写真である。立って撮影したものだから、背丈より高い笹藪の圧力が伝わると思う。これでもかつては林道だった場所だから、いくぶん藪が薄い。
さて、話はずれるようだが、先日『羆撃ち』という書籍でも有名な久保俊治氏の情熱大陸で特集された映像を見た。
前にも何度か見たことがある映像だったが、なんとなく見返したくなった。実は久保俊治氏ご本人と一緒にこの映像を見たことがある。ご本人の解説を交えながらの視聴は思い返しても宝物のような経験だが、それは別の話。
さて何気なく見返していた。尊敬する猟師の映像だからおもしろいに決まっているのだが、あるシーン——せいぜい数秒の短いシーンでガツンと頭を打たれたような気がした。
久保俊治氏が背丈よりも高い笹藪をかき分けながら歩いていたのだ。もちろん探しているのはヒグマ。
ぼくが「笹藪が濃くて入れない」と藪を前にグチっている一方で、映像の中の久保俊治氏は笹藪をかき分けヒグマを追いかけているのだ。
笹藪に分け入っていくことは決して根性論だけではないと思っている。実際にこの映像を見たあとでも、笹藪の前でぼくは尻込みする。
笹藪を物理的に突破することはできる。体力はそこそこあるから。
でも、ぼくはヒグマの存在を察することができるだろうか?
笹藪のどこかに隠れているかもしれないヒグマ。もしかしたらパッと藪に入ったら、そこにヒグマがいるなんてこともあるかもしれない。身動きのとれない藪の中で遭遇すれば、そこから先は運任せ。ぜったい助かる方法なんてなさそうだ。
恐らく久保俊治氏は経験から、大丈夫だと思って歩いているのだろう。経験、観察力、勘……。そういうものが圧倒的に違う。その違いは実際に一緒に山を歩いたときにすでに痛感している。
ヒグマの存在だけではない。いくら久保俊治氏でも、延々と1日中笹藪をかき分けているわけではないはずだ。
「ここを少しがんばって藪漕ぎすれば、その向こうは開けているから歩きやすい」
ということを知っているというのが、非常に大きいと思う。
これまでぼくは笹藪を見ても「ああ、行けない」としか思わなかった。
これからは「ここは行けるか? 行けないか?」と考えるようにしないといけない。
シカの痕跡。クマはなし
林道は猟場ではないが、動物はちゃんと痕跡を残す。とくにぬかるみがあれば、それは顕著なので、しゃがみ込んで痕跡を探す。
足跡は「シカがいる or いない」だけではなく、群れの大きさや子連れかどうかなんてこともわかる。当たっているかどうかはともかく、こういう場所ではじっくり観察して、あれこれ想像してみるようにしている。
こういうグズグズした場所は特に要チェック。ヒグマの痕跡を期待したが、ダメだった。
楽しい休息、花より団子
笹藪のいくぶん薄い場所から入ってみたりしつつ、林道周辺を探索した。そして休憩。
ストーブも便利だが、こういう焚火台も便利。1度に2つ以上の調理ができるので、火おこしの手間はあれど調理の種類によってはかえって合理的だったりする。なにより楽しいし。
ジンギスカンに野菜を入れて食べた。うまい。
山では自分の知識以上の観察ができない
とにかく最近のテーマは「笹藪」だったりする。
自分で「笹藪は歩けない」と決めつけていたが、それが思い込みだったというのがとてもショックだった。行ける可能性がある。そう思っているだけでも、景色は違って見える。
「ここの笹藪を少し超えれば、その向こうは開けているっぽいな」
などと、笹藪の向こう側を想像、あるいは観察するようになった。そういう目で見ると「あ、ここは行けるかもしれない」と思う場所も見つかるようになる。行けないものだと決めつけていると、すべて行けないものだと思ってしまう。でも行けるものだと思って見れば行ける場所も見つかるようになる(と思ってる)。
これは他のことにも言える。
たとえば山を歩いていても木の種類を知らないと「森だな」くらいしか思わない。でもちょっと興味を持って見れば「針葉樹林帯」と「広葉樹林帯」くらいはすぐに区別がつく。あとちょっとわかれば「ここはエゾマツ林か、むかし人工的に樹林された場所だな」なんてことがわかる。
さらに詳しいと、木を1本見ただけで「去年との違い」「この地域の特性」など分かることが多いと思う(ぼくは分からないのだけど)。
それは笹藪1つでも同じなのだ。
通れないものと思っていれば通れないが、通れるものだと思って(通るべき場所が分かれば)通れるのだと思う。安易に「いけるいける」と言うつもりはないのだけど、行ける可能性があると思って見るのと、可能性がないと思い込んでいると、行ける可能性さえ追い求めなくなる……。
自分を縛るのは自分だな。
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