道具の限界と能力の限界——ツンドラサバイバルを読み返して
服部文祥氏の書いた『ツンドラ・サバイバル』を久々に開き、急いでページをめくっていった。
いつも頭にこびりついている文章がこの本の中にあり、それを探していた。今日はその文章を軸に、自分のことを振り返り反省してみたいと思っている。
ツンドラ・サバイバル
ぼくがこの本を読んだのは2018年のこと。こんな書評も書いている。
書評『ツンドラ・サバイバル』念のため持ってきた道具を後悔する心理
このとき書いた書評記事はわりと好きで、今読み返しても(文章がダラダラしているという反省はあれど)内容としては満足している。
もし『ツンドラ・サバイバル』を読んだことがない人がいたら、オススメできる本なので、ぜひどうぞ。
道具の限界と能力の限界
『ツンドラ・サバイバル』の中で、この文章がぼくの頭にかさぶたのようにこびりついている。
狩猟にも上手下手というのはある。それは総合的なものだ。見切りだけが上手くても、射撃だけが上手くても、体力だけでも、猟果は上がらない。(中略)言い換えるなら、自分がもっとも苦手とする要素が結果として表れる。
(中略)
ミーシャは本物だ。猟師として完成している。私の見積もりでは能力ではなく道具——銃の性能——がミーシャの限界になっている。
『ツンドラ・サバイバル』P212-213
現代では良い道具はいくらでも手に入る。かなり高いライフルだって、買おうと思えば買える。銃だけじゃない。ザック、ウェア、すべてのアウトドアギア……。一流の登山家が使っているようなものだって少し高いだけで簡単に手に入る。
一流の道具を背負い、ウェアを着て、猟具を握りしめ……能力不足がゆえに、それらの道具の限界を見ることもないってのがちょっと寂しく思えるのが正直な感想なのだ。
UL(ウルトラライト)系のカテゴリに目を向けると、高価で軽量な道具が転がっているが、それが本当に必要な場面に遭遇したことがあるだろうか? そういうことを自問しては、「これってオーバースペックじゃないか?」と顔を赤らめてしまう自分がいる。
良い道具を持つことは良いことだと思う
誤解しないで欲しいのは、ぼくは良い道具を持つことを否定していない。というか、自分に向けて書いているので、他の誰かに対して書いていない。持てるなら良い道具を持てばいいんだ。
良い道具が与えてくれる刺激も知っている。おもしろさも知ってる。喜びも知ってる。
ただ……良い道具を持つことが目的になって、道具から道具へとホッピングして、道具サーフィンになってしまってはもったいない。
「あんなに良い道具を使ってるのに、あの程度かよ」
と思われるよりも
「もっといい道具を使えば、もっとやれるんじゃない?」
と思われる人でありたいと、最近つくづく思う。そして、こんなことを考えるときに思い出すのが、先述の服部文祥氏のミーシャへの評価なのだ。
道具の刺激
今度は同じ話を真逆から書いてみる。
すでに良い道具を持っているのなら、道具を最大限活かすべく努力するのもいいと思ってる。道具の限界を目指して、自分を高めていこうということだ。そして辿り着いた先には「道具よりも、自分の限界の方が高い」という状態になる。
というか、自分の予算との兼ね合いで、そうするのが自然なことだと思っている。
今無理なく買える範囲のもので、最善のものを手に入れて、その限界を目指して使い込んでいく。
たぶん、ミーシャだってそうだったんじゃないかな? その結果、自分の能力が高まっていったという面はあると思う。
とりとめもないようだけど
最近、山道具の断捨離をしている。
使っていない道具を処分し、本当に使うものだけを身の回りに置いている。
実はこの最大の効能は「新しいものを買えないようにしている」ってのが大きい。
「これだけ減らしたのに、お前はまた何かを買うのかい?」
そんな声が自分の中から聞こえてくる。今あるものでやれるんじゃないか、と。
今後、当面は道具の追加は慎重にやろうと思ってる。よっぽど理由があって、ムダにならないものだけを買う。
まぁ、それだけのことなんだけど、そんなことを考えるときに、チラつくのは(しつこいけど)服部文祥氏のミーシャへの言葉なのである。
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