行為が景色を決める、ということと、イチに期待すること
初めて狩猟に出た日の朝のことをはっきり覚えている。
そこは猟期になるまでに何度も下見で歩いており、地図などなくとも自由に歩けるくらいには土地勘ができあがっていた。
肩に鉄砲を背負って山に入って驚いた。歩き慣れた山が、まったく違うものに見えたから。
いつもと違うのは鉄砲を背負っているかどうかだけ。それまでは「シカやイノシシを見たい」と思って歩いていたが、この日は違う。はっきりと「獲りたい」と願い歩いている。山で見かける動物はほのぼのした可愛いものではなく、“獲物” である。森や茂みはその獲物を隠す障害物であり、風でざわつく木の葉の音は獲物の足音を消してしまう。すべてが獲物の肩を持っているように感じたものだ(実際にはそのまま自分の肩も持ってくれている、と今では思っているけれど)。
その日、何をするか、何を持って,何に乗って山に入るか? それ次第で、山の景色は違って見える。釣り竿を持って歩くのと、MTBに乗って山を駆けるのとでは見える景色が違う。当然のことだと思う。
犬も、そういう新しい景色を見せてくれると、最近は実感している。
犬は見えないものを見せてくれる
風にそよぐ稲を見て「まるで風が見えるようだ」と思ったことはないだろうか?
風という目に見えないものも、それが揺らす草や木を見ることで、まるで見える気がする。そんなことは誰にでも経験があると思う。
犬もやはり見えないものに色をつけてくれる媒介のような存在だと感じた。
とある林道を歩いていたときのこと。ぼくの目にはなにもない、ちょっとした藪にイチが突っ込んで入っていった。フンフンフンフンと鼻を鳴らして必死に匂いを嗅いでいる。なんだろうと覗き込んでみると,シカの足跡があり、藪の枝先にシカの毛がついていた。
なるほど。もしかすると、ぼくらがここに来る直前、シカはこちらの気配を察してこの藪に飛び込んだのかもしれない。けもの道でもない、この逃げ道をぼくが1人で見つけることはできなかった。イチがいるから見えた景色だった。イチが慣らす鼻で、そこに逃げ込むシカの姿が浮かぶようだった。たぶんイチにはもっと多くの情報を持って想像できているんだろうな、とも思う。
行為が景色を変えていく
たとえば林道をバイクで走ると、路面状況に気持ちが向かう。あるいはカーブの先の崖に目が行って「嗚呼、落ちたくないな」と思ったりする。
狩猟で歩くと、足跡や動物の痕跡に目が行くし、山菜狩りだと地面を睨み付けて草を探す。MTBだったら(ぼくはやらないから想像だけど)走りやすいルートを目が追って、危ない木の根などを瞬時に見つけるのかもしれない。
釣りだとひたすら水面と、水面を舞う虫に目が行く。
そしてこれらは混ざりにくい。釣りなら釣りの景色。狩猟なら狩猟の景色。MTBならMTBの景色が見える。もちろん釣りの経験が豊富な人がMTBに乗れば「釣り人目線」がいくらか混ざるが、やはり景色の軸足はMTBにあるはずだ。
同じ山でも行為が違えば、景色が変わる。だからおもしろい。
犬と山を歩きたい理由
じつはこのことこそが、犬と山を歩きたい理由だったりする。
犬と歩いたら、きっとこれまで見えないものが見えるんだろうなって。
初めて鉄砲を背負って山に入ったあの日に見た景色と感覚を、また感じてみたいと。
結構センチな気持ちで、そんなことを期待している。
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