狩猟は1日単位で考えず、仮説と検証の積み重ねと捉える
釣りで獲物が獲れない日のことをよく “ボウズ” と言う。
「ああ今日はボウズだった」
となれば、その日の釣りは失敗だったというニュアンスになる。ただ釣りや狩猟に関してはその日の成果で成否を決めないほうが良いと思っている。
獲れないのは失敗か?
そもそも獲物に恵まれない日は失敗だろうか?
必ずしもそうは言えないと思う。少なくとも僕はそうは捉えてない。
わかりやすいシンプルな例として、その日は獲物が獲れなかったが「どうやら早朝に獲物が集まってるらしい場所を見つけた」ならば、後日そこにアプローチすることで、獲物に辿り着く。「早朝に獲物がいるらしい」という成果は十分に成功と呼ぶべきものだと思う。
より長いスパンへ
「今日は獲れなかったけど、その反省を活かして明日こそ獲る」
というだけでもスパンは2日に伸びる。その日その日の猟果に一喜一憂しない第一歩に思う。
でも、もっと長いスパンで考えることもできる。
いつも獲物がいる場所に今日は獲物がいなかった。翌日も、翌々日も見つからない。痕跡さえも少ない。
そこで隣のA山に行ってみると、痕跡が多い。とくに沢の西側の尾根に痕跡が濃いようだ。
<翌年>
またいつもの場所から獲物の痕跡が消えた。「もしや」と思って昨年行ったA山の沢の西側の尾根に行くと、案の定獲物がいる。
冬の間でもシカの居場所は変わったりする。それを理解できたなら、1頭の獲物が獲れたかどうか以上の意味があるとぼくは考えている。それは成功としか言いようがない。上の例は自分の経験に基づく物で、本でも書いた。
ぼんやり歩いても何も得られない
忍び猟とはぼんやりと楽しくお散歩でもするように山を歩く猟ではない。それは鉄砲を背負ってお散歩しているのであって、名前が付くような猟ではないと思う。べつにそれを否定する気はない。そういう気楽な猟だっていい。
でも「成功」みたいなことをちょっとでも気にするならば、もっと貪欲に成果を求めないとならない。
「ここにいるんじゃないいか?」という仮説を立て、それを確かめるために歩く。いれば獲れるし、いなければ「仮説が間違っているかも」という成果を得る。
そうやって仮説を作っては否定し、また作っては否定し、を繰り返しいつか獲物に恵まれる。最後の最後は運だったりするんだけど、そこまで積み上げてきた仮説と検証のプロセスはムダにならない。
だから1頭目は時間がかかった人も、2頭目はわりと早かったりする。ぼくもそうだった。
忍び猟が難しいと過剰に煽る気はない。むしろ「意外と獲れるもんだよ」と思っている。だけど、その「意外と獲れる」の背景には、山を歩きまくり、仮説を立てては検証する長いプロセスを当然踏んだ上で「意外と獲れる」。
さぁ、山へ行こうじゃないか。
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