猟の終活についていろいろ思った
狩猟を始める時、夢を持って始める人も多いと思います。ぼくもそうです。
生涯取り組みたいことだし、安直に言えば「生きがい」のようになっているわけです。
でも、それだっていつか必ず終わります……。
親父の終猟
親父は長年のカモ撃ちです。大物猟はしないけど、キジなども含めた鳥撃ちをずーーっとやっています。
猟期になると週末ごとに猟に出て、カモを獲って帰ってくる。それを家族で食べる。ぼくが物心ついたときは、すでにそんな生活でした。
そんな父も目に病気を持ち、段々と悪くなってきて、とうとう猟ができないレベルになりました。
とつぜんの終猟です。
「よし来年やめよう」
と計画的にやめられるものではありません。安全に撃てないんだから、もう終わりなんです。視力検査もあるし、騙し騙し続けることもできません(それを勧めたいわけでもありませんし)。
この前の猟期が最後の猟になります。
呆気ないものです。
失うのは猟だけではなく……
目があまりに悪くなり、失明ではないものの、かなり行動に制限が出ています。父は釣りと狩猟を楽しみに生きているタイプです。
狩猟はもうダメ。釣りもたぶん、もう厳しいでしょう。誰かに連れて行ってもらって、仕掛けや場所に関してお膳立てしてもらえれば少しはやれるでしょうけど、やっぱり自分でやれないと、、ね。
テレビもダメ、読書も映画もダメ……。これまでやってきた趣味らしい趣味が一気にやれなくなりました。
生きがいがなくなるのは、単純につまらないってレベルではなく、辛いものだと思います。
先輩に言われた趣味のバリエーション
昔、ある先輩に「趣味はいろいろバリエーションをもたせておいたほうがいいんだよ」と言われたことがありました。
- アウトドアとインドア
- 登山などの能動的な趣味と映画などの受動的な趣味
- 長時間かかるものと短時間で楽しめるもの
- 金がかかるものとかからないもの
などなど。コレを聞いたときは「趣味ってもっと衝動的なもので、計画的にやれるもんじゃない」と、やや否定的に捉えてましたが、いまはちょっと違います。完璧ではないにせよ、趣味にバリエーションはあってもいいな、と今は思います。
狩猟者の終猟
ある程度の年になり、身体が付いて来られなくなり、猟をやめなけりゃいけないときは必ずやってきます。
なかなかスパッと清々しくやめられない自分の姿が目に浮かびます。
前に射撃場で話した年輩の射手の言葉を思い出します。
「もともと狩猟ばっかりだったんだけど、足腰が悪くなったから、射撃専門にしたんだ」
それもひとつの終猟の迎え方なんだな、と改めて思いました。
ほかにも、子どもが猟をやっていて、鉄砲こそ引退したけど、子どもの猟に同行して楽しんでいる年配のハンターも知っています。
鉄砲は手放したけど、山菜・キノコを理由に山を楽しんでいる人もいます。
少しでも猟の余韻を楽しみつつ、狩猟そのものからは少しずつ距離を置く。そういう終猟の仕方もあるのかもしれません。
別に結論のある話ではなりません。
始まりがあれば、終わりもある。
ちょっと心に留めておこう。そんな風に、いまは思っています。
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