ハンターが見せるチラリズムにドキッとすることがある
「生き物ってのは、ほかの生き物を食って生きてるんだァ」
「動物殺して地獄に落ちるってんなら、とうにばちが当たってるだろうよ」
と言うハンターが——
「サルは撃つ前に手を合わせて拝むんだァ、ありゃ撃てねーよ」
とも言ったりする。猟期の前には山の神さまにお参りにも行く。どこか割り切れない感情ってあるもんです。
命に感謝する
狩猟で初めての獲物を仕留めた人が言う定番のセリフが「命に感謝して食べたいと思います」でしょう。
わからないでもないのですが、なんかその言葉でまとめてしまうのは不満でした。わたしが初めての獲物を獲ったときの記事があるので、一部引用してみます。
シカを獲れた喜びはもちろんありました。ガッツポーズしたくなるような気持ちです。しかし同時に、さっきまで生きていたものが、今は生きていない。それも自分ひとりの判断によるものだということをまざまざと感じてもいました。
罪悪感とか、申し訳ない気持ちとか、そういうこととは違う気がします。そういう気持ちもありますが、もっと違う何かです。ずっと考えているのですが、このときの気持ちを短い言葉で表現することができずにいます。少なくとも言えるのは「自分の判断でくだした結果である」ということ。それが重要です。
(中略)
「引き金を引くのが自分なら、引いた結果も自分が背負わなくちゃいけない」
命に感謝……とは違うんです。違う気がするんです。「ありがとう鹿さん、おいしく食べるよ」とは違うんです。
もっと生の感情を書きたいと思ったんです。それがうまくいったとは言いませんが、「(引き金を)引いた結果も自分が背負わなくちゃいけない」というのが、わたしの思いでした。
獲物を殺して喜ぶハンター
狩猟をやらない人からすると、ハンターが獲物を殺して喜んでいる姿は異様なのかもしれません……。
でも嬉しいんですよ。ひとりで「やったァ!」と口から漏れるほど嬉しいんですよ。
仕留めた獲物を前に「よし、よし、よし……」と、立派に仕事をやり終えた犬を褒めるように、自分を褒めてやることさえあります。
そうやって獲物を殺して喜びながらも、無意識に、不自然な位置にある獲物の頭を戻してあげたり、手を合わせたりもします。
別に手を合わせたから許されるとか、優しく扱えば獲物に分かってもらえるなんて思ってないんです。ただなんとなくやってしまうんです。
わたし自身、狩猟をやっているくらいですから、「狩猟賛成派」なわけです。
狩猟をすることは悪いことだと思っていないし、法的にも正当な権利だし、自然界を見渡してもけっして後ろめたいことではないと思っています。
でも、猟期の前にこっそり地元の神社にお参りしてしまう一面もあります。猟隊に属していないので、イベントとしてみんなで行くことはしていません。ただひとりで神社に行って、自分なりに手を合わせるだけ。
これをしたからと言って獲物に恵まれると思っているわけでもないですし、何か許されるとも思ってない。
現実と霊的なものの間。
狩猟を通じて「自然の神秘」的な、霊的な深みを追求する人もいます。
一方で、狩猟の現実的な側面を重視する人もいます。食べるためとか、駆除のためとか……。
自分のことを言えば、両方なんですよね〜。
猟をやるときは淡々とあまり深いことを考えない。でも、ふとしたときに霊的な——というか、染みついた日本人としての宗教観(仏教・神道混合のあれ)が顔を見せる気がします。
回りのハンターを見ていても、人それぞれだけど、やっぱり両方持っている人が多い印象があります。
何が言いたいかと申しますとね、「現実的なタイプの人が、ちらりと霊的・宗教的な側面を見せるとき、なんかドキッとしない?」ということです。そういうハンターのチラリズムに人間として魅力を感じることがあります。
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