動物を殺すときに思うこと……
動物を殺すとき、自分は何を思うのだろうか?
狩猟を始める前に持っていた疑問だった。「食べ物に感謝」みたいな気持ちになるのかな。懺悔の念に駆られるのかな。それとも意外と何にも思わないのかな……。
この記事を書いている時点ですでに6頭のシカと1頭のイノシシを殺めている。それに7羽のカモ。1つの命を奪うたびに、帰りの車で「いま、自分は何を思ってる?」と自問するのだけど、短い言葉で表現できたためしがない。
モヤモヤとした感情が湧いてくるけど、いまだに輪郭を持たず、それを現す言葉もなく、ブログでもいまいち書ききれずにいた。
とはいえ、猟期も終えた今、「今書かないと一生書けない」という思いもあり、モヤモヤとしたまんまの感情を書き殴ってみたいと思う。
殺すことは楽しくない
ハンターに対して「殺しを楽しんでいる変人・蛮人」という気持ちを持っている人がいると思う。まぁ、そういう人もいるのかもしれないので、積極的に否定しようとは思わない。だけど少なくとも自分は殺す行為を楽しいと思ったことはない。そして、その考えが立派だとも思わない。
ある日の猟……。
遠くにシカを見つける。苦労して見つけたシカだ。嬉しくないわけがない。冷静に鉄砲を構えて、息を吐き、引き金を引く。シカは跳ね、全力で逃げようとする。
シカが立っていた場所に行く。落ち葉に血痕。逃げていった方向を見る。鹿の姿はない。血を追う。時々大きく出血しつつ、それでも一直線に逃げているのがわかる。少し歩くたびに「そろそろ倒れていてくれ」と祈るような気持ちになる。
遠くに倒れたシカの背中が見える。見つけたことにホッとしつつ、祈る気持ちは続いている。
「死んでいてくれ……」
歩み寄って、事切れているとホッとする。
ナイフで、動物の皮膚の弾力を感じながら殺す行為はとても重い。ナイフの切っ先が心臓に届き、シカの身体がブルッと痙攣する。こっちの心臓までキュッとなる。だから鉄砲で撃った1発で死んでいてくれると本当にホッとする。
鉄砲ってのはやっぱり飛び道具。ナイフで殺すことに比べれば実感が薄い。いや、誤解して欲しくないけど、実感がないというわけじゃない。スーパーで肉を買うときに比べれば何百倍も殺している感覚が湧く。だけど、ナイフで仕留めるのは、やっぱりすごく重い。
自分で殺しておいて「死んでいてくれてホッとする」だなんて、我ながら嫌になる……。
でも事実だから。
いろんな感情が順に湧いてくる
こうして獲物を仕留めたあと、いろんな感情が湧いてくる。
とてもじゃないけど、「いや〜、自分で殺すと、食べ物に感謝するようになるねぇ」なんて言葉に集約することはできない。
まず湧いてくるのは喜び。苦労して見つけた獲物。それをみごと仕留めたわけで、やっぱり嬉しい。ガッツポーズ。
そして次に思うのは安堵。狩猟は家族に協力してもらえているからこそできる行為だ。自分が1日猟に出るということは、その分だけ家族に負担がいく。家族は応援してくれているから後ろめたさはないけれど、やっぱり「獲ったよ〜」と報告したくなる。
そしてこういった喜びや安堵の裏からふつふつと湧いてくるのが「やっちまった」という罪悪感。獲物の透明な目が、少しずつ白く曇っていくのを見て、元気に生きていた動物を殺したことを実感する。
自然と手を合わせてしまうのはこのとき。
「せめておいしく食べなきゃ」
という気持ちが湧いてくる。狩猟を通して、初めて供養って言葉を考えるようになった。おいしく食べることが供養になるのか? と言われれば「なる」と思う。供養とは「死後の幸福を祈る」という意味。祈ることが供養。わたしにとって、おいしく食べるために努力することが、祈ることなんだろうな。
だから、感傷に浸っている時間なんてない。罪悪感なんて押し殺して、血抜きや内蔵の処理に移る。
凹んでいる暇があったら、1秒でも早く血抜きや解体を進めたい。
解体は死体から食材に変える作業
獲物の解体とは、まさに死体から食材に変える作業。
後ろ足を取り、前足を取り、どんどんと死体が肉になっていく。不思議なもので、後ろ足なんかを切り分けると一気に食材感が増す。
「うまそー!」
って感情が湧いてくる。さっきまで「罪悪感が」とか「生きた動物を殺めてしまった」だとか言っていたのがウソのように思える。
しかしながら、こうやって死体から食材に変わった途端、罪悪感に似た感情が薄れていくのは、人間が持つ機能なんじゃないかな、と思う。
人間は共感する力を持っている。自分の痛みだけではなく、他人の痛みを自分のもののように感じることができる。それどころか動物の痛みにさえ共感することができる。
もし、動物を殺すときに感じる罪悪感が薄れることがなかったら、とても焼き肉なんてできやしない。
やっぱり食材に変わった途端「うまそー」って感情が勝つのは人間の機能だろうと思うんです。
帰り道
狩猟で山に入り、獲物を獲った帰り道、いつも思うことがある。
「朝いたシカが、いまは1頭減ってるんだ」
当たり前。わたしが1頭殺めているのだから。背中に肉を背負って、えっちらおっちら下山するとき、山から減ったシカのことを考える。
当たり前だけど、鹿の数は有限。獲ったら減る。で、また1年経てば少し増える。
いわゆる持続可能な資源ってやつなんだろうな。山の再生能力に驚かされます。動物を資源として割り切れてはいないのだけど、やっぱりそう理解するのが自然なのかな、とは思う。
獲物を獲るエネルギー
獲物が獲れなかった日も疲れるけれど、獲れた日の疲れは計り知れない。
肉体的な疲れだけではなく、精神的な疲れも大きい。わたしはまだ不慣れだからかもしれないけど、獲物を獲った次の日はエネルギーを使い切った感じがして猟に行けなかった。動物の命を奪うってのは本当に疲れる。
将来、もっと慣れてくれば克服できるのかな。
とにかく、これがわたしにとって「獲物を殺すときに思うこと」なんです。いろんな考え方もあると思います。とくに長年の経験者はまったく違う考えがあるのかもしれませんね。
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