狩猟って“善悪”や“理想”で分けられるようなもんじゃないと思う

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今日はちょっと簡単に説明できないテーマで書いてみたいと思います。ぜひ、みなさんの考えも教えてください。

テーマは「狩猟における善悪や理想的な狩猟について」です。

SNSなんかでいろんな人の意見を見ていると、他人の狩猟について「これは良い」「これは悪い」「理想的」「理想的じゃない」と評価することが少なくありません。ハンターも他のハンターを評価するし、ハンターでない人もハンターを評価します。わたしも例外ではありません。口にするしないは別にして、心の中では評価していることがあります。

自分でも他人の狩猟スタイルに対して「これはどうなの!?」と否定したくなるときもあります。が、ちょっと立ち止まって冷静に考えてみると、「立場が違えば、考え方も違うよな」と理解できることも。いくつか例を挙げながら考えてみたいと思います。

肉を残さず食べるハンターは理想的か?

「ぼくは狩猟で得た肉は余すことなく、ムダにせず、感謝して食べます。解体や運搬にも時間がかかるし、1日1頭くらいしか獲れないよ」

と書けば、とっても耳に優しいですネ。ちょっと狩猟に否定的な考えを持っている人でも「まぁ、それなら許そう」くらいに思うのでは? ではこちらはどうでしょう?

「ぼくはおいしい部位だけ取って、あとは埋めちゃうな。で、どんどん次の獲物を獲るよ。だってたくさん獲りたいもの」

こちらは「けしからん!」と怒る人もいるのではないでしょうか?

残さず食べるハンターは理想的。獲った獲物をムダにするハンターはひどい。だって生き物だもの。生き物を殺したら、無駄なく頂かないと!

なんか一見頷きたくなるような、合理的な説明。でも、どうでしょう? 後者のハンターについて少し言い方を変えてみます。

「獣害で地元の農家が苦しんでいる。だから、ぼくは駆除優先。いまはまったく駆除が追いついていないから、獲れるだけ獲らないと間に合わない。でもせっかく獲ってるから、せめて肉の一部は頂こうと思うよ」

どうでしょう。じつは駆除という視点で見れば「1日1頭しか獲らないよ。食べる分しか獲らないよ」なんて考えは間違っています。目標数を獲るために計画を立て、その目標に向けて動かないといけないわけです。

「狩猟の善悪」なんてものを定義しようとしたとき、自分の見ている視点によってまったく違った結論になってしまいます。

  • 生きてくためには肉が必要 → 狩猟は「善」
  • 駆除のために個体調整が必要 → 狩猟は「善」
  • 動物には生きていく権利がある(人は菜食になるべきだ) → 狩猟は「悪」
  • 動物の立場から見れば → 狩猟は「悪」
  • 法律的には → 狩猟は「善」(認められているという意味で)
  • 生き物を殺すのはよくない(仏教的な?) → 狩猟は「悪」
  • 生態系の保護のために増えすぎた動物を管理する必要がある → 狩猟は「善」

なんというか、これをひとまとめにして「狩猟は善」とか「狩猟は悪」とはとても言えない、というのがわたしの意見です。というか善とか悪とか、そんな定義することなんてできないです。

狩猟は善だ! なんて言うつもりもない。かといって悪だからやめるべきとも思わない。

狩猟ってのはいつでも善と悪の両面を持っていて、それを自分で背負って行くしかないのでしょう。

獲物の写真をアップすること

先ほどは狩猟のスタイルの話でしたが、SNSやブログが一般化した今「獲物の写真をアップすることの善悪」なんて話題も見かけます。

獲った獲物の写真をアップすることは悪でしょうか? 善でしょうか?

獲った獲物と一緒にニコニコ顔の自分も一緒に映った写真をアップすることは悪でしょうか? 善でしょうか?

わたしは自分の中のルールとして、白黒にして、耐性がない人がグロテスクに感じそうな部分は隠してアップするようにしています。これは善でしょうか? 悪でしょうか?

撃ったシカが妊娠していて、解体をしていたら胎児が出てきたので、その写真をアップする。これは……?

マタギ関連の本に生々しいクマの解体写真が掲載されている。これは……?

わたしはどれも善だなんて言いきれないです。でも、悪だと切り捨てることもできない。人の死体をネットにアップするのは良くないというのは、なんとなく共通認識として定着していますね。じゃ、シカは? イノシシは? クマは? カモは? スズメは?

う〜ん。

白黒ならOK? たぶんそういうことじゃない。

わたしは自分のブログやTwitterに獲物の写真をアップするとき、自分なりにいくつかの意図を持っています。自分と同じような1年生ハンターと刺激し合って気持ちを高めたり、どういうシチュエーションで獲れたのか共有することで誰かの参考になるかなと思ったり、ブログやTwitter経由でいろいろ教えてくれた先輩ハンターがいるので、その人たちに感謝の意味を込めて「獲れました」という報告をしていたり……、肉を食うという行為の根っこには、生きている動物を殺すというプロセスが存在するのだ、という主張も込めています。

そういう意味や意図があるなら写真をアップするのは善か?

違うだろうな。悪だとも善だとも言える気がする。

善だ悪だと言えない、言わない

仏教の教えの中には「無記」という言葉があります。

超ウルトラ簡単に説明すると、ゴータマブッダの時代、世間にはいろんな哲学的な疑問があり、いろんな宗教家がその答えを導き出していました。たとえば「世界は永遠か?」などという問いです。ある宗教家は「Yes」と答え、別の宗教家は「No」と答える中、ゴータマ仏陀は「……」つまり沈黙で応えたといわれています。つまり答えなかったというわけです。答えないことが答えでした。このことを無記と言います(詳しくは専門書を、あるいはWikipediaを、「そんな時間がないよ」と言う人はコトバンクを参照)。

先ほどまで書いていたような狩猟は善か? 狩猟の写真をアップするのは善か? 肉を全部取らないのは悪か? などといった狩猟に関する善悪について考えるとき、わたしはこの無記という言葉を思い出すンです。ちょっとわたしが言っている話と、仏教の無記では意味が違うかもしれませんが、連想してしまう、という意味です。

それが善とか悪とか断定して安心しちゃいけないんだと思っています。善だからOK! とか悪だからダメ! とかシンプルに考えるんじゃなくて、善も悪もごちゃまぜに入り組んだ世界で、ハンターはそれを全部背負って生きていくしかないのかなって……。

理想のハンター?

善か悪か? と同じことですが、世間には「理想的なハンター像」というものがありますね。

そしてその理想と違うハンターに対して、悪態をついたり、批判する人も少なくありません。

しかしその “理想” だって、立場が違えば変わってくるんです。業務として駆除に取り組んでいる人と、釣りのようにアウトドアレジャーとしてやっている人と、家族の肉のためにやっている人とでは違ってくるし、その立場だって、みんな単一的じゃなくて、いくつかの立場に跨がっていると思っています。

たとえばわたしは「駆除の必要性を理解し、少しは貢献したいという気持ちもありますし、レジャーとして楽しんでいる気持ちも強いし、でも肉のためという意味で自分なりの生き方を模索する意味もある」わけです。

駆除を目指す理想のハンターと、おいしいお肉のための理想のハンターでは違いすぎて、同じハンターとしてくくれないほどです。

他人に自分の理想像を押しつけず、自分が信じる理想のハンター像に向けて行動し続けるしかないんだろうな。

全部背負っていく

じつは猟を始めて「ハンターは全部背負っていくしかない」という言葉がしっくりきています。

理屈で自分のやっていることの正当性を主張したりすることも、世間的な理解を得る上では重要で、無視できないことですが、最終的には黙って、受け入れて、背負って行くしかないのかなって。

巻狩であれ、単独猟であれ、最終的に引き金を引くのは自分です。

誰かに責め立てられて、仕方なく引くのではありません。

撃った獲物が子連れであろうが、妊娠していようが、子どもであろうが、病気であろうが、うまい肉になる個体であろうが、良し悪しとかじゃなくて、それを受け入れて、グッと背負うしかない。そう思っています。

とりとめもない話になりました。

ひとりで山を歩いていると、時々こんなことを考えています。

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