自分の猟欲について考える:撃つも撃たないも自分次第だから
実際にハンティングに取り組んでいて、猟欲って不思議なものだと思ったんです。
なんか、安易に説明できないような猟欲の作用があって、それを合理的に説明しようとすると混乱して、首をかしげてしまうのです。
帰りの車の中で
猟の帰り道の車中はいつも思索思索の繰り返しです。
その日の猟を振り返り、反省したり、次の計画を立てたり、悦に入ったり……。その中でも、時々陥るのが「あのとき自分はどういう感情だったんだろう?」という自問自答。
たとえば……
ある日の朝、小さなメスジカがいる。こっちを向いて立っている。どうやらすぐに逃げる気はないらしい。
食べるならこういうメスジカがうまい。単独猟だと持ちかえるのも楽で、魅力的でしかない。
でも撃たない。撃たない理由を説明することはできるし、その日のブログ記事にはそれを説明するそれらしい言葉が並んでいる。
でも、どれだけ説明しても「でも、それだけじゃないんだけど……」と言い足りない気持ちになる。
たとえば……
でかいオスジカとやや小さめのメスジカが一緒にいる。オスジカはこれまで獲ったのに比べて1番大きい。メスはうまそうなサイズ。
オスジカを撃つ。よし! とガッツポーズ。
そして別の日に、まったく別の話題で「おれはミートイーターだから、うまい獲物を獲りたいんだよね。だから狙いはメスだよ」と語る自分がいる。
ウソをついているつもりはないんです。
うまいメスジカを獲りたい気持ちも、でかいオスジカを獲りたい気持ちもウソじゃないんです。
選ぶ難しさ
たとえば、スーパーで肉を買うとき、1番うまそうな肉を選ぶ。そこにまったく迷いはない。
スーパーで魚を買うとき、1番うまそうな魚を選ぶ。やはり迷いはない。
“肉を、魚を獲りに行く” と家を出て、いざ獲物を前にすると、そこに別の感情が働く。でかい獲物を獲りたい。でかい魚を釣りたい。
——猟欲。
釣り歴は長いのでよくわかる。手頃なサイズの魚が釣れると「これくらいがうまいんだよね〜」と喜ぶ一方で、でかい魚が釣れると大興奮する。で、いざ食べるときになると「まぁ、手頃なサイズの方がうまいんだよね」と改めて思う。それはそれで満たされた気持ちだったりする。でかい魚を思い浮かべて、悦に入る。
釣りの時は変な葛藤はなかったな。なぜなら魚は選べないから。見えない魚を釣るので、釣れた魚で喜ぶしかない。
でも猟は違う。見えるシカやイノシシを獲るわけで、どの獲物を獲るかは、自分の選択にかかっています。
大きいのでも、小さいのでも自由。
「選ぶことができる」とも言えるし、「選ばないといけない」とも思う。いっそ、ランダムに獲れれば、その結果に一喜一憂すればいいんだけど、自分で選ばないといけないので、その選択を何かのせいにすることはできない。すべて自分にかかってくる。
山の神がいるとするならば……
もし “山の神” がいるならば……と考えたことがあります。
「獲物を選ぶなんておこがましいことなんじゃないか?」
パッと現れた獲物こそ、山の神に与えられた獲物なんだから、つべこべ言わずにそれを獲るために全力を尽くすべきだ。
でも一方でこんな考えも浮かんできます。
「自分が欲しい獲物を正しく知って、それを選ぶことこそ真摯な姿勢なんじゃないか?」
いらない獲物を獲らないことこそ、山の神に対して誠実な態度じゃないだろうか?
あれこれ考えて、いまはこういう結論。
「選ぼうが、選ぶまいが、山の神の知ったことではない。山の神からすればこちらが選ぶことも選ばないこともお見通しだろうから」
いわゆる手のひらの上で転がされている状態です。こちらがあれこれ考えて、オスを獲ろうが、メスを獲ろうが、大きなのを獲ろうが、小さいのを獲ろうが、もし山の神がいるならば、その選択に一喜一憂することはないでしょう。
つまり、選ぶも選ばないも自分次第。自分だけの問題。
狩猟は個人的な行為
わたしがいっつも思っていることですが、狩猟ってつくづく個人的な行為だなって思うんです。
たとえば自慢の銃を人に見せることもありません。自慢の猟装を見せることもない。獲った獲物だってそうそう見せることはない(単独猟だと)。
獲る獲物も自分次第。撃つも撃たないも自分次第。撃った獲物の肉を全部持ち帰るのも、うまい部位だけ持ち帰るのも、まったく持ち帰らないのも自分次第。
巻狩でも変わらないと思っています。
目の前に来た獲物を撃つか撃たないか。それは自分次第です。仲間への責任感とか、撃たないと申し訳ないとか、そういう気持ちが決断を後押しするのは当然ですが、引き金を引くのは自分。その事実は変えられない。
撃つも撃たないも、誰かに命令されることではないんです。
撃ったなら、それは “自分” が撃ったってこと。
猟欲
閑話休題。話がズレたので戻りましょう。猟欲について。
うまい肉を取りたいって気持ちで始めた狩猟です。「いわゆるトロフィーハンティングにはあんまり興味がないなぁ」と思っていたはずなのに、いざでかいオスジカを目の前にして、それを撃ちたくなる気持ちがふつふつと湧いてくる。
なんでなのか分からないんですよね。
名誉? 達成感?
どっちもある気がします。猟を通して興奮したいって気持ちがあるんでしょう。でもうまい肉を食いたいって気持ちもある。どっちも本当。
自分の感情に対してウソをつくことも嫌だし、こうして書いているブログできれい事を並べても意味がない。自分の猟欲を認めてやらないといけないなって思いました。
釣りでも段々と “欲” は変わっていきました。最初は「釣れれば満足!」だったのが、徐々に「大きいの釣りたい!」って気持ちが強くなり、最近では「ロケーションやストーリー重視」みたいなところがあります。自分の好きな沢で、好きな釣り方で釣りたい。1番釣れる場所に行けばある程度の数が釣れるのは分かっていても、あえて源流の細い沢に入り込んで、そこでどうにか1尾釣ることに熱中したい。
猟でもきっと猟欲自体が変化するんだろうな、と思っています。
いまは、こう。
いつか変化してきたらまた考えてみたいです。
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