山で怖いと思わないことに違和感を持ちたい
「登山道もない山に入るのって怖くない?」
こんな内容の言葉を言われたことがある。狩猟ではけもの道を追って道なき道を歩くことから、こういう話題になったのを覚えている。
この質問に対して強い違和感を持った。その違和感の話。そして「怖いのも含めて山である」というお話を。
登山道なら怖くないのか
「登山道を歩けば怖くない」という感覚が、ぼくはとても怖い。
そして怖くない山を歩いて「自然ってすばらしい」と思うこともなにか違うと思っている。
自然は基本的に怖いものだ。たしかにその怖い自然の中で、登山道は「できるだけ怖くないように作られた安全圏」のような役割を持っている。でも決して登山道は無敵の場所じゃない。熊に襲われることも、崖を滑落することも、道に迷うこともある。
自然は怖いのも含めて自然だ
でも、ぼくがこの記事で言いたいのは「登山道も怖いんだよ」という話ではない。そんなのは当たり前のことで、まぁ山に携わる人なら分かること。
むしろここで言いたいのは「怖いのも含めて自然である」という話。たとえば想像してみてほしい——
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超高性能なAR(拡張現実)があるとしよう。そのARの中で山を歩く。完璧な映像に加え、触ったものも特殊なテクノロジーで実際に感じ取ることができる。山の匂いも照りつける太陽も感じる。映画『マトリックス 』に出て来るような装置を想像してほしい。口に飛び込んできた虫の味さえ感じるような完璧なARだ。
そのARで山を歩いたとして、果たして自然を味わったと言えるだろうか……。
すこしシチュエーションを変えよう。同じ完璧なARで、ビルとビルをロープでつないで綱渡りをすることは、実際に綱渡りすることと同じことだろうか?
お金をかけないギャンブルで同じ興奮が味わえるだろうか?
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山は怖いからおもしろい。
スリルを味わっているという話ではない。たとえば遭難しないために地図読みの技術を磨く。たとえばクマにやられないようにクマの気配を気にしながら歩く。悪天候で遭難しないために天気を読む。転ばないように注意をする。身体の不調に早く気が付くように自分の身体をよく観察する。そういうことの1つ1つがおもしろい。
怖いからこそ技術を磨き、経験を重ねていく。現地での判断力も高めていく。
動物はいつも怖がっている
山に入るとき「その山に暮らす動物のようにありたい」という気持ちがある。もちろん、こちらは山で暮らしているわけでもないただの訪問客だから、同じにはなり得ない。でも近付きたいとは願っている。
そして動物はみんな怖がっているんじゃないかな。動物が具体的にどう考えているのか分からないけれど、狩猟という目的で山に入るとき、動物は隠れるし、逃げる。当たり前。少なくとも——
「山の中はとっても素敵でリラックスできるな〜」
といつも思っていることはないんじゃないかな。
怖いのは体験の一部。
山には美しい景色、感動的な登頂、すばらしい発見がある。そして怖いのもその一部。
たとえばキャンプをしていて、「家と違って眠れないな〜」という人もいると思う。それはとても普通のこと。だって怖いんだもの。テントの外を歩く動物の気配がすれば目が覚めるし、朝まで何度も起きては寝るのを繰り返すのも普通のこと。動物だって(たぶん)そうだと思う。
ぐっすり眠れないのは怖いから。だから眠れないのも含めて自然だしアウトドア。それを排除して、“怖くないアウトドア” を作り出すことは、前述の超高性能のAR登山とか、死なない綱渡りとか、金をかけないギャンブルと似ているんじゃないかな。
最後に一応、分かる人には分かると思うけど蛇足な補足。
「山は命がけだからおもしろい」とか「無茶するのがおもしろい」ではないからね。自然は本来怖いところだから、自分の力で精一杯安全を担保していくプロセスも含めて山である、ということ。
ましてや、安全圏(たとえばガッチリ管理されたキャンプ場)で楽しむことを否定する気もないし、登山も否定していない。むしろ好きよ。
だけど、アウトドアを楽しむっていうときに危なさ・怖さを排除できると思っている感覚は、やっぱり違和感がある。そういう話。
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