「狩猟を通じて1番伝えたいことは?」的な質問に対して
本を出版したからか、たまに「狩猟を通じて1番伝えたいことは?」という質問を頂くことがあります。
単純な質問ですし、まぁ、ありがちな質問でもあるんでしょうけれど、これが意外と答えに窮する質問でして、いろいろ考えさせられてしまったわけです。
それでも何度か聞かれる中で、なんとなく答えが浮かんできたので、書いてみたいと思います。
最初は黙ってしまった
1番最初にこの手の質問を受けたとき、僕は黙ってしまいました。
そしてその黙ってしまったという事実がちょっとショックでした。
というのも、わたしは考えるのが好きで、運転中、山で歩いているとき、鉄砲を磨いているとき、いつも何かを考えています。だから大抵の質問に対しては(表面上はちょっと迷っているそぶりを見せたとしても)ある程度の答えは持っているつもりなんです。
それに質問は本を出版した人間なら当然聞かれるであろう「やまくじさんの狩猟を通して伝えたいことは?」というありがちな質問。ありがち過ぎて
「んなもん、読んで感じ取ってくれよ」
と言いたくなってしまいます。でも、そのありがちな質問に対して、なんかうまく答えられなかったんですよね。
狩猟の魅力……?
パッと思いつく答えとして、「狩猟の魅力を伝えたくて」というのがあります。
まぁ、これはこれでウソじゃないし、実際その魅力に取り憑かれていますから、「ほらほらおもしろいンだよ」という思いは滲んでいると思います。
でも、なんというか……「僕の本を通じて狩猟の魅力を知ってほしい」っていうのは答えの一部かもしれないけど、全体じゃない……。
狩猟を通じて伝える?!
ある日、突然思いました。
「狩猟を通じて何を伝えたいか?」
この質問にかなり惑わされていたな、と。この質問を受けたときに、なんとなく【ぼく→狩猟→読者】という図式が浮かびました。ぼくが自分の狩猟を見せることで何かを伝えようとしている、と。少なくともこの質問者さんはそういう意図を持っていたと思います。
そしてこの質問をうけたとき、無意識に【ぼく→狩猟→読者】という構図が頭にこびりついて、この矢印に乗せてぼくは何かを伝えようとしているのだろう、と質問の答えを探してしまいました。
でも、たぶんぼくにとってはこの構図自体に違和感を持っていて、あえて書くなら【狩猟→ぼく→読者】なんです。
ここで言う狩猟というのは【自然】とか【獲物】とか【山】という言葉と置き換えてもいいです。
そういう【狩猟】(自然・獲物・山など、以下略)を通じて伝えるなんて、ぼくにはおこがましいし、何より違和感がある。たとえばぼくが画家で「絵を通じて伝えたいこと」ならわかる。絵は自分の創作物だから。でも【狩猟】は僕の創作物じゃないし、ぼくの表現の場でもない。狩猟を自己表現の場だなんて思ってない。
【狩猟】からは学ぶことしかないんです。山から何かを教わったり、獲物から教わったりすることはあります。というか教わることしかありません。【狩猟】というのは先生みたいなもの。コントロールしようと思ってもできない。
だから矢印は【狩猟→ぼく】でなくちゃいけない。
で、ぼくはそこで学んだこと(の一部)を文字にして伝えようとしているんです。
だからぼくが書いているものはどれもこれも、思い切ってまとめてしまえば「なんか【自然】がこう言ってたよ」ってことなんですよね。
これって幼稚園児と同じなんですよ。幼稚園から帰ってくるなり母親に対して「お母さんお母さん、今日ね、幼稚園でね、優くんがね、こんなことをしてたの。おかしいよね〜」と報告するのと同じです。
ぼくというバイアス
さて、【狩猟】という名の先生から教わったことを伝えようとしている、と書きましたが、それならば「誰が書いても同じじゃないか?」となりかねないわけですが、それもまた違う。
【狩猟】って「1+1は2ですよ」と明解なことを教えてくれるわけではないので、同じ経験をしても受け取り方が真逆になることもある。つまり書き手のバイアスががっつりかかる。たとえば獲物を半矢にしてしまったとして——
ある人は「さっさと2発目を撃てば良かった」と——
ある人は「そもそも遠かったから1発目も撃つべきじゃなかったな」と——
ある人は「半矢にすることもあるわな。反省すべきことはない。次もがんばろう」と——
学ぶわけです。
世の中にはいろんな狩猟本がありますが、それはつまり、それぞれの著者のバイアスを読むものであり、言い換えれば「その著者の人間性」を読むものなのかもしれません。
【狩猟】は人間性を浮き彫りにするのかもしれない
【狩猟】というのは、本人が意図しないうちにその人の人間性を浮き彫りにするような気がします。
元狩猟家であり、フォトグラファーである幡野広志氏がFielderでこんなことを書いていました。
狩猟をやっていたのではなくて、狩猟に試されていたと言った方が正しいと思う。
Fielder Vol.38 Hunter’s Life 最後の狩猟
まさにこのことですね。これに気が付いた今、改めて「自分が書いた本とはなんだったのか?」と考えると、ちょっと恐ろしいことに気が付かされるわけです。
つまり「“単独忍び猟の記録”という体裁の、やまくじこと武重謙の人間性を浮き彫りにした本である」ということ。
あー怖い、あー怖い。
改めて「狩猟を通じて何を伝えたいか?」
ここで最初に戻って、発端となった質問「狩猟を通じて何を伝えたいか?」に答えるなら……
「狩猟という行為はぼくと自然の間で行われることであり、狩猟を通じて何かを伝えるという表現の場ではない。そこで学んだことを、ぼくという人間を通じて文章にしているだけです」
って感じなんです。だから言ってみれば「ぼくはこういう人間なんですよ」という本。私小説的と言ったら分かりやすいと感じる人もいるかな?
……ふぅ。伝わりましたでしょうか。まだまだ言葉足らずな気がしてならないし、正しい言葉を選べているか不安はあるのですが、ブログは思考の過程を書いて良いものだと思っているので、ひとまず現時点で思っていることを書いたつもりです。
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